「日本国憲法改正試案」小沢一郎(自由党党首)


文藝春秋 1999年9月特別号 所収
「日本国憲法改正試案」小沢一郎(自由党党首)

第九条はこう修正すべきだ
参議院を「権力なき貴族院」にせよ

 日本国憲法が衆議院本会議で可決されたのは、昭和二十一年八月二十四日のことである。同年十一月三日に公布され、翌年の五月三日に施行された。占領軍総司令官であるマッカーサーが政府に草案を出したことは広く知られている。半世紀以上もの長きにわたって、一度も改正されることなく、現在に至っている。

「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」

 これは日本国憲法第九十八条の規定である。数多くの法律のうち「最高法規」と位置づけられているのか憲法である。国民の生命や財産や人権を守るために定められ、平和な暮らしを実現するために自分たちで決めたルールである。時代が変わればルールも変わるはずなのに、五十年以上も憲法は改正されていない。新しい時代に必要な価値観を書き加えられることもなく、化石同然の代物を後生大事に抱えている。それなのに現行憲法が完璧であるかのように主張する人たちが多い。
 さらに誤解を恐れずに言えば、占領下に制定された憲法が独立国家になっても機能しているのは異常なことである。民法においては、監禁や脅迫により強制された契約が無効であることは自明の理である。それなのに話が憲法になると「占領下であっても国会で論議されて、正当な手続きを踏んだ上で定められている」などと、法の精神を無視した主張が罷り通るのである。
 昭和二十一(一九四六)年、日本は軍事的占領下にあった。日本人は自由に意思表示できる環境になかった。正常ではない状況で定められた憲法は、国際法において無効である。これは一九〇七年に締結されたハーグ条約に明記されている原則であり、日本が終戦後に受諾したポツダム宣言にも、日本国の統治形態は国民の「自由に表明せる意思に従う」という条項があった。
 他国の憲法をみても、例えばフランス共和国憲法には「いかなる改正手続きも、領土の保全に侵害が加えられている時には開始されず、また、続行されることはできない」と書かれている。東西ドイツ統一以前の連邦共和国基本法(通称、ボン基本法)には「この基本法は、ドイツ国民が自由な決定により議決した憲法が施行される日に、その効力を失う」という文言があった。
 日本では長い間、憲法改正を論じることさえも憚られていたので、私のような政治家がこのように主張すると「平和憲法」を有難く戴いている人達は「右翼反動」というレッテルを貼るかもしれない。もちろん、占領下に制定された憲法だからと言って、すべて間違えていると思っているわけではない。私はこの憲法をそれなりに評価している。学生時代には法律家を志して、特に憲法はよく読んでいた。しかし平和とは、なんであるか。憲法とは、なんであるのか。もう一度、冷静に考えるべきではないか。


占領下に制定された憲法は無効

 結論を言えば、昭和二十六年にサンフランシスコ講和条約が締結され、国際的に独立国として承認されたことを契機に、占領下に制定された憲法は無効であると宣言し、もう一度、大日本帝国憲法に戻って、それから新しい憲法を制定すべきであった。もちろん新しく制定される憲法が「日本国憲法」そのものであっても、何ら問題はない。これは私のオリジナルな考えではない。占領下に制定された憲法が無効であるのは、かつては日本でも普通に論じられていた。佐々木惣一氏や大石義雄氏など、京都学派の代表的意見がそうであった。
 米ソ対立の五五年体制の下、ひたすら高度経済成長に邁進するうちに、日本には独特な精神風土が育まれていた。「護憲」と言うといかにも信念があるようだが、その実態は思考停止の馴れ合い感覚で、現体制のままでいいではないか、そんなに難しいことを考えなくてもいいではないかという無責任な考えが深く浸透していたのである。「守らなければならないのだから、議論をしてはいけない」と、すぐれて日本的発想に支配されていた。政権党である自民党は当初は綱領にも書いてあった「自主憲法」の制定にいつのまにか蓋をし、野党第一党の社会党に至っては「平和憲法」をひたすら標榜するだけで、いつしか憲法は不磨の大典となった。佐々木氏や大石氏を始めとする京都大学の学者の見識も忘れられるようになったのである。
 二十一世紀を迎えようとしている今、日本は大きな転換期にあることは否定する人はいないだろう。日本的な馴れ合い主義では内外の変化に対応することはできない。江戸時代のような鎖国状態に後戻りする事を望む国民は一人としていないであろう。ならば、国民の意識を世界に通用するように変革すること、それが唯一の道である。そのためには、まず法体系の根幹である憲法が様々な不備を抱えたまま放置されていることから改める必要がある。憲法改正論議こそ時代の閉塞状況を打破する可能性がある。
 私は個人的にも代議士生活三十年の節目を迎えて、改めて戦後の日本のタブーに異議を申し立てる決意を固めている。折しも国会には憲法調査会の設置が決まった。これは発議権のない調査会という曖昧な位置づけではあるが、これまでの状況を考えれば一歩前進とも言える。ここで私なりの「憲法改正の考え」を発表し、出来るかぎり自由な発想による憲法論を展開して、国民の冷静な判断を仰ぎたい。
 尚、最初からお断りさせていただくが、私は法律の専門家ではないので、法規範としてとらえれば、非常に不適切な文言、稚拙な表現が多々あると思う。従ってこの文章は、あくまでも憲法に対する自分の主張を表現したものであるということで、ご理解いただきたい。


表現はシンプルであれ

 昭和二十二年に施行された日本憲法は、わずか六百字程度にすぎない「前文」から始まる。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する……」

 あらかじめ知ってほしいのは、憲法解釈のときに時代背景などを理由づけの根拠にするのは禁じ手であることだ。法解釈には立法者の意思を持ち込まず、あくまでも条文に従って解釈すべきだと断っておく。例えば、憲法制定時の経緯からすると、アメリカ占領軍は、当初は日本に二度と戦力を持たせないようにしようと考えていた。日本人は鬼畜米英を唱える狂信的な民族であると思っていたのである。この方針は米ソの冷戦構造がはっきりしてくると変わっていくのだが、このような歴史的経緯を憲法解釈に持ち込むべきではないことは、法律解釈のイロハである。
 この前文には日本国憲法の基本原則が書かれている。平和主義の原則。基本的人権の尊重の原則。国民主権の原則。さらに付け加えて強調したいのは、国際協調主義の原則が謳われていることだ。この四原則を変える必要はないと、私は考えている。
 ここではわかりやすいように新字体、新仮名で引用したが、実際の憲法には「日本國民は、正當に選擧された」と旧字体で書かれてあったり、文章自体も翻訳調で読みにくいなどの形式的な問題はあるが、この点について今回は触れない。あくまでも憲法の内容について論じる。ただ、表現はできるだけシンプルであることが望ましい。さらに我々の伝統や文化に基づいた日本人独自の内面的資質についても、前文で踏み込むべきではないかという議論もあって、それにも私は基本的に賛成である。
 また、本来なら前文で書かれるべき抽象的な理念が、遂条部分に書かれていることで、裁判に混乱が生じていることも事実である。例えば第二十五条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などは本来、前文に置くべきで、むしろ国際協調主義などは遂条にもあって然るべきであろう。


天皇は日本国の元首だ

 第一章には、「天皇」(第一条〜第八条)の項が設けられている。日本国憲法第一章第一条は、この一文である。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

 いわゆる、戦後左翼の主張のように、単純に「平和憲法」と思っている人達は、前文の理念的なメッセージに引きずられて勘違いしている。日本国憲法は立憲君主制の理念に基づく憲法である。天皇が一番最初に規定されていることからも。それは明らかではないか。
 元東大教授の宮澤俊義氏などが「国家元首は内閣総理大臣である」と主張しているのも間違いである。宮澤説は大日本帝国憲法との比較において日本国憲法は共和制であると位置づけているのであるが、例えば第六条に書かれているように、主権者たる国民を代表し、若しくは国民の名に於いて内閣総理大臣及び最高裁判所長官を任命するのは天皇である。又、外国との関係でも天皇は元首として行動し、外国からもそのようにあつかわれている。このことからも国家元首が天皇であることは疑うべくもない。天皇が国家元首であることをきちんと条文に記すべきであると主張する人もいるが、今の文章のままでも天皇は国家元首と位置づけられている。宮澤説は私も学生時代に何回も呼んで勉強した経験をもっているが、戦後社会や今日にも成されている、戦後左翼が好んでする議論に通ずるものだと思う。

 条文の順に従って、第二章「戦争の放棄」(第九条)に移る。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 この第九条は、戦後日本において最大の論点であった。ここにかかれているのは国権の発動、すなわち自衛権の発動は個別的、集団的を問わず抑制的に考えるべきであるという原則なのである。平たく言えば、直接の攻撃を受けなければ武力による反撃はしないということだ。第九条の小見出しも〔戦力の不所持〕や〔交戦権の否認〕ではなく、〔自衛権の発動〕とすべきである。
 自衛権というのは、人間に譬えれば正当防衛権である。これらの本来的な権利は「自然権」として認められていて、最高法規の憲法や国際条約は言うに及ばず、いかなる法律もその権利を否定することはできない。一国の中で強制力を持つ刑法体系においても、正当防衛や緊急避難は認められている。強制力を持つ統一した法秩序の存在しない国際社会では更に当然の国家としての自然権である。国家の正当防衛権が認められなければ、憲法など成り立たない。したがって、憲法九条はこうなる。

[自衛権]
一 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」 
二 「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」 
三 「前二項の規定は、第三国の武力攻撃に対する日本国の自衛権の行使とそのための戦力の保持を妨げるものではない。」 
(編集部注・小沢試案) 

 「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」すべしと、第九条では冒頭に説いている。さらに前文には「平和を維持し、専制と、隷従、圧迫と偏狭と地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と、日本は平和創出のために積極的な役割を担うことを表明しているのだ。しかし実際には、どのようにして国際社会における正義と秩序を維持すべきであるのか。
 日本の平和活動は世界の国々が加盟し、唯一の平和機構である国連を中心にやっていくしかないと、私は考えている。全文で書かれている国際協調主義は、遂条にも具体的に盛り込まれることが望ましい。そこで日本国憲法第二章第九条に続いて、新たに次のような一条を創設することにより、憲法の目指す国際協調主義の理念はより明確になるだろう。

[国際平和]
「日本国民は、平和に対する脅威、破壊及び侵略行為から、国際の平和と安全の維持、回復のため国際社会の平和活動に率先して参加し、兵力の提供をふくむあらゆる手段を通じ、世界平和のため積極的に貢献しなければならない」(編集部注・小沢試案)

 この条文の精神は国連憲章第七章の「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」と同じものであり、又日本が国連に加入する際に発出した文書と同じ趣旨のものである。
 国連に加入して国連憲章を是認しながら、「国連が認める平和活動に参加することは国内憲法によって許されない」と言うのは支離滅裂である。先述のように、憲法の前文には国際協調主義が貫かれている。その原則に従って、新しい時代における平和主義の理念を表明すれば、なし崩し的な軍事大国化という近隣諸国の懸念を避けて、誤解を解消することもできる。現行憲法の前文には「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」とある。名誉ある地位を占めるために、我々はあらゆる努力をする必要がある。「お金だけ出します」は、もはや通用しない。


「国連常備軍」を創設する

 直接的に武力攻撃を受けたときの反撃手段のため、最小限度の軍事力として自衛隊を持つ。加えて国連の一員として平和維持活動に協力して「国連常備軍」の創設を計画したり、軍縮や核兵器廃絶などの具体的な目標を法律(安全保障基本法)に織り込むことも可能である。
 新世紀を迎えようとする日本が平和を維持し、生き残っていくためには、国際社会との協調を図らないければならない。そのためには、国連を中心としたあらゆる活動に積極的に参加していく以外に道はない。その意味で私は、日本が率先して国連常備軍の構想を提案すべきだと思う。兵器・技術の発達により、もはや昔の主権国家論は通用しなくなった。個別的自衛権や集団的自衛権だけで、自国の平和を守ることは不可能である。集団安全保障の概念、すなわち地球規模の警察力によって秩序を維持するしかない。自衛隊は歴史的使命を終えて、これから縮小することになる。そして日本は国連常備軍に人的支援と経済力を供出すべきである。
 明治維新のとき、朝廷は武力を持たなかった。警察力も権力もなかったので、薩長を中心に親衛軍をつくったのである。今の国連は、ちょうど維新後の朝廷と立場が似ている。固有の力を持っていないので、事が起きた時に、その都度各国に呼びかけPKOを始めとして多国籍軍の編成を行うことになる。これでは、緊急な時に迅速な行動がとれないという事もあり、又、その時々の各国の思惑や事情により実効があがらないという面も多々ある。従ってこういうやり方でなく、一歩進めて国連に常備軍を設けるべきであるというのが私の主張である。日本は国際協調によらなければ生きていけないのだから、日本が積極的にこの常備軍創設を呼びかけるべきだ。アメリカはこの考え方に賛成ではないが、日本はその説得にあたると同時に、経済的にも軍事的にもその力の備わった有力な国々に積極的に提唱し、それを率先して実行する姿勢を示すべきである。
 一概に、国連を中心とした集団安全保障とは言っても、もちろん実はそこに国益が絡んでいることもある。湾岸戦争のときにも、アメリカはメジャーの石油資本を守りたいという思惑があると主張する人達がいた。確かに、自らの利権を守るために軍隊を派遣する側面もあった。しかしアメリカはけしからんと短絡的に批判することに、何の意味があるのか。
 これはグローバリゼイションの問題でもある。この流れに反感をもつ人達の中には、「グローバリゼイションとはアングロサクソン原理の国際化である」と言って批判する人がいる。しかし、そんなこと言っても、どうしようもない。世界はそれに基づいて動いているのだから、きちんと対応して克服するしかないのである。アメリカと手を切ることは、日本が鎖国するということに等しい。それでいい、それこそが真の幸せだと確信できるのであれば、それも一つの行き方であり哲学だと私は思う。しかし、物資的豊かさは人一倍享受したいと願っているくせに、口先でだけそんな事を言うのは、日本的"アマッタレ"以外の何物でもない。
 結論として言えば、国際の平和と安全の維持、回復のため我が国が積極的に貢献することは、憲法第九条に言う「国権の発動たる戦争」とは全く異質のものである。
 すなわち、我が国が世界の恒久平和のために、国連権章に基づき、兵力の提供を含むあらゆる手段を用いて貢献することこそが、結果として我が国自身の平和と安全を守ることである。
 そして、これこそが日本国憲法の目指す「国際協調主義」の原点そのものである。


公共の福祉を啓蒙しろ

 第三章は「国民の権利及び義務」であり、現行憲法では第十条から第四十条までに明文化されている。
 この日本国憲法全体の問題として、抽象的な言葉が多すぎるためにわかりにくいと指摘しているが、この第三条においてはその傾向があからさまになっている。
 特に目につくのは「公共の福祉」という言葉だ。第十二条と第一三条に出てくる。さらに第二十二条、第二十九条と、頻繁に出てくる。「公共」という言葉は乱用の域に達しているのに、「公共の福祉」という言葉が何を意味するのか、憲法にはまったく定義されていない。これでは憲法論議そのものが、言葉遊びの陥穽にはまりこんでしまう。
 第十二条には「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しないければならない」と説かれて、最後に「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」としている。第十三条の「個人の尊重」も、やはり「公共の福祉に反しない限り」と制限されている。民法には第一条の基本原則として「私権ハ公共ノ福祉ニ遵ウ」とあって、権利の行使、義務の履行は信義に従って誠実になすことが必要であると書かれているのに、憲法には「公共の福祉」の規定が独立していなくて、条文に埋もれさせているから抽象的で意味不明になる。両条文の改定案は、第十二条では「公共の福祉」を規定して、第十三条は自由や権利を保持するためには国民の努力が必要であるという訓示規定にすべきである。従って、第十二条、第十三条は次のように改正する。その結果、他の条項に書かれている公共の福祉の文言は必ずしも必要でなくなる。

[公共の福祉]
「この憲法の保障する基本的人権はすべて公共の福祉及び公共の秩序に遵う。公共の福祉及び秩序に関する事項については法律でこれを定める。」(編集部注・小沢試案)

[幸福追求権]
「この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならない。」(編集部注・小沢試案)

 日本では、公共の福祉という概念が理解されていないので、個人の権利を制限する法律がつくれない。日本人が本当の意味で自立するためには、時には個人の自由が制限されることもはっきりさせておく必要がある。
 政府にも責任があるだろう。例えば通信傍受法案。これは国防を含めた治安維持に欠かせない。そこの問題を国民には隠して、捜査するのに少しだけ必要などと誤魔化しながら法案を通そうとする。住民台帳をつくるのも、税金のためだけではない。有事の安全保障や緊急時の危機管理に必要だからこそ、背番号制度を導入するという形で論議されるべきではないか。
 日本の政治は、その本質を取り違えている。公共の福祉という概念をきちんと国民に理解しもらって、その上で具体的な危機管理システムを提案すべきではないか。それから組織犯罪によって国民全体が不利益を受ける危険性を啓蒙すればよい。もちろん権力がそれを濫用したら国民は不利益を受けるから、厳罰をもって対処することも規定すべきである。
 この第三章には、あえて憲法に書くべきでないような、常識の範疇にあると思われる当たり前の条文も多い。時代に必要とされない条項が残されていると、裁判上のトラブルを発生させる原因にもなる。
 憲法に明記されている価値観が、日本古来の伝統文化になじまないケースもある。神道の祖先崇拝は、西欧人の宗教観とは異なる。第二十条の信教の自由に基づいて最高裁が憲法違反として愛媛県の「玉串料判決」は、八百万の神を信じる日本人にはピンとこない。信教の自由は、宗教と国家が結びついたファシズムの抑止に限定してはどうか。
 また、「環境権」や「知る権利」のような新しい人権も導入されて然るべきである。


参議院に選挙はいらない

 さて、次が問題である。
 第四章「国会」(第四十一条〜第六十四条)は、全面的に改正すべきだ。憲法第四十二条に「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」と書かれているように、わが国は二院制をしいている。私の実感では、これが機能していない。衆議院と参議院がほぼ同等の権限をもっており、共に選挙によって選ばれることになっているので必然的に参議院まで政党化し、本来の二院制度の目指している衆議院との機能分担ができなくなっている。
 法案、予算、条約などの制定において衆議院が優越することになっているけれども、その他の案件は参議院で否決されると衆議院は三分の二の特別決議が必要になる。あとは完全平等で、同じことを二度やるからカーボンコピーと言われている。衆議院で過半数を獲得しても、強いリーダーシップが発揮されないことは、現在の政治状況がよく示している。両院を実質的に同等にしているために、総選挙で示された国民の総意が現実政治になかなか反映しない。選挙によって国民の代表を選ぶのは、衆議院に限定して、参議院はチェック機能に徹するべきだ。
 私は、参議院についてはイギリスのような「権力なき貴族院」をイメージしている。イギリスでは直接選挙によって六百五十九人の代議士が選ばれている。約十万人に一人である。それとは別に約千三百人の貴族院議員がいる。しかし、国会の実質的機能は、衆議院(下院)にあり、その意味では事実上は一院制といってもよい。
 日本も英国を始め他の国々のように実質的な一院制をとっているならば、衆議院議員の定数は五百人、約二十五万人に一人であるから、人口比を考えれば衆議院議員は現在の二倍以上に増やしてもいい。しかし、日本の場合は、ほぼ対等の衆参二院制度をとっているので、国民からは衆参両院が同じようなことをやっているから、無駄だということになり、定数削減が求められるのである。
 従って私の結論は参議院議員を選挙によらない名誉職的なものにして、立派な業績や顕著な実績のある方に、大所高所から御審議願うという制度に変えた方が良い。選挙されるということは何らかの形で利害代表者になることだ。名誉職的参議院議員には、そういう個々の利害関係から遮断し、公平中立な判断を行わしめるのがよい。衆議院を通過した法案は、参議院で否決されても衆議院に戻され、通常議決で可決できるようにする。利害の絡まない参議院がチェックしているという事実の重みに、両院制の存在意義が生まれるのである。
 貴族院的な参議院と言っても、身分制度的な爵位という意味ではない。一代限りの栄典にすれば、貴族制度の弊害は生じない。その代わりに勲章と称号は惜しむことなく与える。憲法第十四条は、貴族制度は認めないけれど、栄典の授与は認めている。それに財政負担も現在よりははるかに少なくてすむ。
 例えば衆議院を二十五年間つとめた人には勲章を与えて、参議院の終身議員になってもらう。サッチャー元首相も「サー」の称号をもらって貴族院に移っている。私だって、喜んで参議院に行く。名誉ある地位を与えられて、選挙の心配がなければ、みんなが競うように参議院に移るだろう。地元への利益誘導は必要ないし、国家的見地から発言するようになる。年金を増やすより喜ばれるばかりでなく、参議院の若返りにもつながる。
 第四章「国会」についての改正は以下の通りである。
 まずは日本国憲法第四十三条第一項「両議院は、全国民を代表する選挙された議員……」を改めて、

「衆議院は、全国民を代表する選挙された議員で組織する。定数及び選挙に関する事項は法律でこれを定める。」(編集部注・小沢試案)

 次に、第四十六条は、

「参議院議員は衆議院の指名により天皇が任命する。その任期は終身とする。」(編集部注・小沢試案)
 (注)天皇の国事行為に参議院議員の任命を加える。

 又、第五十九条第二項「衆議院の優越」は次のように定める。

「衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で再び可決したときには法律となる。」(編集部注・小沢試案)

 第四章の「国会」については、その他にも論議された上で改正、整理されてしかるべき問題点があり、制度的に国会や内閣の組織につながる実効性のある条文だけを残し、将来的にはさらに削除してもいい。イギリスに成文憲法がなくても問題がないように、機能的な法律がきちんと運用されていればいいのである。


内閣の超法規措置を許すな

 第五章は「内閣」(第六十五条〜第七十五条)である。第四章で参議院の位置づけを大きく変えたので、第六十七条「内閣総理大臣の指名」の「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」という部分を次のように改正する。

「内閣総理大臣は、衆議院議員の中から衆議院の議決で、これを指名する。」(編集部注・小沢試案)

 行政府が独立しているアメリカと違って、日本では国会における多数党が内閣総理大臣を選ぶ議院内閣制を採用している。
 第六十六条には「行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」とあるように、内閣総理大臣は国務大臣を任命して内閣をつくり、「閣議の全員一致」の原則によって国家に対して一体となる。つまり、議院内閣制であるから、国会と内閣は対立しない。対立するのは与党と野党である。ところが日本人の大部分は内閣はお上という発想で、与党までが、国会と内閣は対立していると思いこんでいる。そして更に、政府と与党とが使い分けることにより政治の責任を回避している。
 内閣問題における最重要事項は、緊急事態における内閣の権限を明確に定めておくことである。自民党だけでなく、他の政党や役所にも言えることだが、緊急事態が起きたときに、どうするのか。危機管理の基本が、まったく理解できていない。だから彼らの結論は「超法規措置」になる。
 これは恐るべきことである。民主主義の否定であり、独裁の論理である。超法規とは「朕は国家なり」ということだ。みんなで決めた約束を守っていくのが民主主義であるはずなのに、超法規を結論にするのは馬鹿げている。非常事態にそなえて、きちんとしたルールを決めなくてはいけない。民主主義はあくまでも"Due Process of Law"つまり、「法律の適正な手続き」でなければならない。
 戦争だけでなく、天災もある。阪神大震災の教訓を省みれば「危機管理」の重要性も理解されるだろう。
 従って内閣の権能として、非常事態の時の権限を付与する規定を置く。

[緊急事態]
「内閣は、国又は国民生活に重大な影響を及ぼす恐れのある緊急事態発生した場合は、緊急事態の宣言を発令する。緊急事態に関する事項は法律で定める。」(編集部注・小沢試案)

 衆議院(国会)への報告についてはガイドライン法案でも論議されたが、日本の場合は多数派を占める政党が内閣をつくる議院内閣制なので、内閣と国会の意思が対立することは基本的にはありえない。又、緊急事態宣言の発令については、天皇の国事行為にした方がいいかもしれない。
 内閣制度については、首相公選論の大きな間違いを最後に指摘しておく。首相公選制は天皇制の廃止を意味するということである。天皇制を維持しながら公選論を唱えることは論理として成り立たない。
 天皇の国事行為には、国務大臣などの認証がある。ところが衆議院議長は認証官ではないし、天皇が国会議院を認証することもない。何故ならば国会議員は直接主権者に選ばれているからである。主権者の意思は最終であると同時に、絶対である。だからこそ天皇が国民の名のもとに認証する必要がないのである。首相公選ということは主権者たる国民が、国の最高責任者を直接選ぶことだから、選出された首相というのはまさに国家元首、いわゆる大統領そのものであり、その状態の中で君主としての天皇の位置付けは不可能である。したがって、首相公選制は、天皇制の廃止を前提とする以外に、これを採用することはできない。


憲法裁判所を創設する

 第六章「司法」(第七十六条〜第八十二条)第七章「財政」(第八十三条〜第九十一条)、第八章「地方自治」(第九十二条〜第九十五条)の三章については、大きな問題点を指摘するに留める。
 司法制度の最大の問題は、あまりにも裁判の進行が遅いことである。憲法より、まずは訴訟法を改正すべきだ。日本の司法制度の蓄積疲労は限界にきているかもしれない。法体系を合理的にすることによって、スピードアップを図ることができる。
 もうひとつ私が提案したいのは、憲法裁判所の創設である。憲法訴訟だけを扱う一審制の裁判所を新たに設置したい。

「すべて司法権は、憲法裁判所、最高裁判所及び法律の定めるところにより下級裁判所に属する。」(編集部注・小沢試案)

 何度も述べているが、日本憲法には抽象的な文章が多いために、裁判所はマニアックな憲法訴訟を数多く抱えていて、それぞれ審議が十年や二十年かかるケースも珍しくない。本来なら裁判所はどんどん却下すればいいのに、他の民事や刑事事件も遅れているので、憲法問題の処理に消極的になっている。様々な事情があるにしても、きちんとした判決をくださずに逃げてしますことが多い。そんな結論にせよ、合理的な判断をくだすべきだ。
 司法権とは、憲法の砦である。ドイツ、フランス、イタリアなどに導入されている憲法裁判所を新設し、そこに憲法八十一条に規定されている「違憲立法審査権」の役割を委ねたい。

「憲法裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する。」(編集部注・小沢試案)

 憲法裁判所の裁判官の人選は、今までの制度にとらわれずに元裁判官や有識者から、国会あるいは内閣が指名すればいい。
 第七章の財政は、他の章と比べると問題点が少ないとされてきた。しかし国の財政状況は破綻寸前と言われている。第八六条に定める予算の単年度主義、また第九十一条の財政状況の報告についても今後の検討を要する課題であろう。
 第八十九条は最近の憲法論議では焦点のひとつで、私立学校振興助成法を根拠とする「私学助成金」が問題になっている。

「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」

 この条文を読むと、私学助成金は明らかに憲法違反である。前半部分の宗教団体の記述は第二十条の信教の自由と重なることもあって、第八十五条は速やかに改正すべきであると、私は考えている。

 第八章の「地方自治」については、「地方分権基本法」を制定して、東京一極集中を分散させたいと『日本改造計画』に書いた。国家財政と同じく、多くの地方公共団体が財政破綻に苦しんでいる。第九十四条「地方公共団体の機能、条例制定権」も見直されるべきだろう。


日本人よ、決断せよ

 これまで憲法改正案を論じてきたけれども、最後にとてつもない隘路に迷い込んでしまう。第九章第九十六条「憲法改正条項」である。これを変えないかぎり、いかなる改正論にも説得力はない。第九十六条を読むと「この憲法は改正できません」と書いてあるに等しいからである。

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」

 総議員の三分の二、この壁が越えられない。任期六年の参議院があるために、衆議院で圧倒的勝利をおさめても、三分の二には届かない。総議員の二分の一の賛成で憲法改正が可能になるように改正することはできないだろうか。
 今ではほとんどの世論調査で、憲法改正には過半数の賛成者がいる。それでも、国会で三分の二の壁を越えることはできない。そこで我々自由党では、憲法改正の国民投票制化を提案している。国民投票の期日、国民への周知、投票の方式、経費、罰則などを規定したものである。国民投票に関する運動は、原則として自由にした。まずは議論を動かしたのである。憲法改正はできないものと、諦めてはいけない。
 例えば、国民投票を国会よりも先に行うことはできないだろうか。憲法は国民のためにある。時代に合わなくなった憲法を変えるには、主権者である国民の意思をまずは尊重すべきある。
京都学派の憲法論に戻るという選択肢もある。即ち最初に述べたように、一旦日本国憲法の無効を国会で宣言し、その上で新しい憲法を作りなおして、可否を問うのである。
 日本人は小心だから、なかなか思い切って現実を改革する決断ができない。それなのに、テポドンでも落ちてこようものなら、ヒステリーを起こして極端にまで突っ走るおそれがある。マスコミの論調もすぐに過熱して戦前の例の如く「鬼畜米英」ならずとも「直ちに北朝鮮をたたけ」という見出しが躍るかもしれない。しかし、これでは又、歴史の繰り返しである。
 だから、冷静に考えてほしい。小沢一郎が言ったからでなく、自分の頭で論理的に考えて、結論を出してほしい。 


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